2020年09月02日

戦後75年_領土渡航を考える

◇戦後75年特集 降伏文書発効から三四半世紀、領土と渡航を飛行場から考える

今日9月2日、第二次世界大戦の降伏文書が発効してから三四半世紀、75年となりました。
航空機の大量投入で航空戦が起こった大戦を、航空や空港の話題から振り返り、未来を良くしていきませんか。


今年2020年は、第二次世界大戦終戦から75年となる年です。三四半世紀という節目の年となりました。一世紀目は直接体験した人に時間が少ないでしょうから、今年は非常に重要な節目と言えるかもしれません。

終戦に関する話題は8月15日にも取り上げましたので、今日は、未だに問題が取り残されてしまった、75年前の終戦直後の混乱で生じた北方領土問題と領土への渡航を飛行場の話題から軽く考えてみます。

終戦の捉え方は国によって様々
日本では終戦の日は8月15日ですが、世界では少し考え方が違います。
日本が連合国側に降伏を受け入れることを通達したのは8月14日。旧日本軍内で戦闘停止の命令がなされたのは8月16日で、武力行使の一切停止は8月25日0時以降(自衛は除く)です。そして、日本政府全権が降伏文書に調印して発効したのが9月2日となっています。
実際には最前線の隊員への情報伝達には時間もかかりますし、最前線では日本側・連合国側ともに即時戦闘停止できるわけではありませんから、8月15日正午以降も戦闘行為は続いていたわけです。あくまでも8月15日は日本国民に向けて戦争終結が発表された日なだけです。

このため、対日戦勝記念日(VJ Day=Victory over Japan Day)は国によって様々です。
イギリスやインド、オーストラリアなどでは8月15日なのに対し、アメリカでは9月2日となっています。ベトナムも国慶節は9月2日です。フィリピンは祝いは9月3日ですが、勝利の日は9月2日。中国などは9月3日を記念日としています。ソ連は9月3日としていましたが、ロシアになってから一度9月2日に変更。9月3日を推す声が根強く、今年9月3日に戻されているようです。
香港では、長らくイギリスに引き渡された8月30日でした(中国返還後は中国に合わせて9月3日)。
フランスやオランダなどは、太平洋地域に植民地が多かったものの、ドイツ戦で本土が疲弊していましたから、対日戦勝よりも対独戦勝の方がメインのようです。

つまり世界では終戦の日は一定ではありません。事実としてあるのは、今日9月2日に降伏文書が正式に発効したということ。世界的には今日が本当に終結した日と捉える人が多いようです。
ただ、よくテレビなどで出てくるアメリカ・タイムズスクエアのキスシーンの映像は8月14日に撮られています。インドネシアで独立戦争が続くなど特異な地域はあるものの、8月14日以降は、当時の人たちも、全世界が「組織的な」戦闘を停止したというのが共通認識なのでしょう。

・The Royal British Legion公式サイトの特設ページ
https://www.britishlegion.org.uk/get-involved/remembrance/remembrance-events/vj-day
・英国政府公式サイトの特設ページ
https://ve-vjday75.gov.uk/vjday/
・THE NATIONAL WWU MUSEUMの特設ページ
https://www.nationalww2museum.org/war/articles/v-j-day


北方領土不法占拠は間隙を突かれた
そんな世界の常識を頭の片隅に入れて、75年前を捉えると、北方領土問題が良く分かるようになります。

日本が8月15日に組織的戦闘を停止した後も、日本に対して組織的な戦闘を新たに始めたのがソ連軍でした。
前述したとおり、日本が連合国側に降伏を受け入れることを通達したのは8月14日ですが、ソ連はそのことを把握しながら、8月15日に千島列島侵攻を命令。千島列島最東端の占守島(しむしゅとう)では、8月18日にソ連軍が、武装解除中の日本軍を奇襲しています(23日に現地で停戦協定締結し武装解除)。ソ連軍はその後も侵攻を止めることは一切なく南下を続け、北方領土に一番近い得撫島(うるっぷとう)は8月31日に占領されています。
北方領土の択捉島にソ連軍が上陸したのは、降伏受け入れ通達から2週間も経った8月28日ですが、前述の通り、日本軍は武力行使の一切停止をした後。自衛の戦闘は許可されていたものの、武装解除後で大した抵抗もできずに、9月1日に国後島、色丹島への上陸を許し、9月3日にはソ連軍は歯舞群島へ。北方領土の四群島は9月5日までにソ連軍に占拠されてしまいます。そしてソ連は、そのまま翌年に北方領土を自国領に編入、不法占拠が75年も続くことになってしまいました。
※余談ですが、得撫島は、平成9年までNHKラジオの気象通報でおなじみだった島です。

日本にしてみれば、完全に間隙を突かれて、不法占拠された状態です。
しかし、ソ連(それを継承したロシア)からしてみると、降伏文書が正式発効したのが9月2日なので、「いやいや前日の9月1日までに少なくとも択捉、国後、色丹には、上陸はしてっから」という論理なのでしょう。
最近の返還議論や平和条約の中で、ロシア(旧ソ連)側がどんなに譲っても歯舞群島以外返還交渉に乗せるのも無理と主張するのには、そんな背景もあるわけです。

北方領土、千島列島、樺太を巡っては、それまで決まっていなかった日ロ(日ソ)の国境線が何度か変わっています。
最初にロシアと日本との間で国境線が確定したのが1855年に結ばれた日魯通好条約。ここでは、樺太を両国民混住、千島列島の得撫島以北をロシア領、択捉島以南を日本領とすることで確定しています(ここで「千島列島」に択捉や国後を含めるかが、日本語でははっきり書いてあるのに、ロシア語でははっきり書いていないようですので、問題がややこしくなっているようです)。
その後、1875年に樺太千島交換条約が結ばれ、樺太はロシア領、得撫島以北を含む千島列島全てを日本領とする事が確定。さらに日露戦争後のポーツマス条約で1905年に南樺太が日本領になっています。

1855年以前に千島列島や北方領土にロシア人が住んだことがあったとしても、国境が確定したのは1855年。それまでは、北方領土、千島列島、樺太とも、日本もロシア(ソ連)も正式に領有が認められていません。
このため、日本の立場では、北方領土四群島は、ロシア人・ソ連人が住んでいる・住んでいないに関係なく、一度もロシア領・ソ連領になったことはないわけで、日本の主張は、まずは、「戦争云々は全く関係なく、北方領土四群島は固有の領土」で、どんなに譲っても、少なくとも北方領土四群島は、小笠原や奄美、沖縄同様に返還されて当然となっています。そして、その次の段階で、「しかもソ連軍は終戦後に攻め入ってる不法占拠した土地」というわけです。
ロシア側では、そもそも千島列島は国後島から占守島まで一体という認識なので、「そもそも北方四島と分けるなんてなんじゃい」といった印象なのでしょうから、話が通じなくなってしまっています。

ロシアは、北方領土、得撫島以北の千島列島、南樺太を第二次世界大戦で占領した(勝ち取った)と主張しています。しかし、ソ連が第二次世界大戦中(8月14日まで)に上陸していたのは南樺太だけ(しかもソ連の上陸は8月11日以降のたった4日間)。南樺太全土を占拠したのは8月25日です。8月15日以降は、ソ連軍としての占拠したのではなく、治安維持の連合国軍が入ってきただけであり、戦後占領が終われば出て行け、というわけです。
正直、日本からしてみると、侵攻日時からすると、得撫島以北の北方領土を差し出すのもふざけた話。そこを、南樺太のみならず、百歩譲って得撫島以北の千島列島を放棄するとしているのに、一度もロシア領・ソ連領になったことがない北方領土も差し出せとはあり得ない話なわけです。

また、南樺太と(日本の認識での得撫島以北の)千島列島を放棄するのは、サンフランシスコ平和条約で宣言していますが、ソ連との間で同条約が結ばれていないため、ロシアに対しては、これらの地域も日本領であるとの立場になっています。だから地図は白色です。
日本として失敗なのは、1956年の日ソ共同宣言で、歯舞群島と色丹島しか引き渡すことにしていないことですね。なぜそうなってしまったのかがあまり話題になっていませんね。

こういう背景を知ると、戦後75年目の8月15日〜9月2日の間という最も微妙な時期に、ロシアへの忖度が一切通じなかった安倍総理が辞任を発表したのは、何だか日本は何もできない弱小国家だということを象徴的に現す出来事だったように感じてしまいますね。

※恥ずかしながら、こういった8月15日〜9月2日の動きは、実は、10年前に、根室半島の納沙布岬から北方領土を眺めるまで、全く知りませんでした。
8月9日にソ連が一方的に条約を無視して参戦したことは知っていました。でも、8月15日までに北方領土が占領されていたのだと思い込んでいたんです。
しかも、道東から見る北方領土の近いこと、近いこと。納沙布岬から歯舞群島までは、伊豆半島から伊豆大島を見るより近いとは考えてもいませんでした。
STAY HOMEでバーチャル空間が注目はされていますが、やはりこういったことは現地で肌で感じないと分かりづらいです。

・北方領土問題に関する外務省の特設ページ
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo.html
・北方領土問題対策協会のサイト
https://www.hoppou.go.jp/index.html

尻切れではありますが、これ以上の経緯については、他の専門家にお任せするとして、そんな歴史的背景があり、北方領土には、多くの日本人がかつて住んでおり、それらの遺構がたくさんあります。
ビザなし交流を除けば、日本人は現地に行くことは実質できませんから、遺構が残っているのかどうかはあまり知られていません。しかし、そんな中で、飛行場は、航空写真ではっきりわかる代表的な遺構になっています。Google Mapでは丸見えです。

長々と書いてきましたが、今回は、それを少し取り上げます。

20200902a.jpg
「返せ北方領土」納沙布岬から北方領土方面を望む
煙に巻かれてますが、心の目で見れば貝殻島灯台が見えてくる???


択捉島に集中している北方領土の飛行場
択捉島:天寧飛行場
昭和18年に完成した旧陸軍基地と旧海軍基地。択捉島の中央にある単冠湾(ひとかっぷわん)の南側、留別村天寧(てんねい)に位置する飛行場です。
戦争時には、旧陸軍滑走路が南側、旧海軍滑走路が北側にありました。旧海軍区域には、逆V字に2本の滑走路が整備されていたそうで、GoogleMapで溶けかかった滑走路跡を見ることができます。北西から南東に向かって延びる直線部(南東端に構造物有)が一つの滑走路跡(約1200m)で、その中央付近から東へ延びる直線がもう一本の滑走路跡(約800m)です。よ〜く見ると滑走路東端が丸くなっているのが分かります。ターニングパッドですね。
滑走路の下側に見える四つの四角や左側曲線(誘導路跡)に並ぶコの字の構造物、さらに滑走路南東端の構造物の東側に複数見えるコの字の構造物は無蓋掩体壕と思われます。

この飛行場跡地は、戦後、ソ連によってブレヴェスニク飛行場(Аэропорт Буревестник)となりました。空港コードも、IATAがBVV、ICAOがUHSBで設定されています。ICAOコードは完全にロシア(Uから始まるのは旧ソ連)のコードですね。
旧海軍基地の滑走路より1.3キロほど西側に並行して整備された2300mほどの滑走路があります。これが旧陸軍基地の滑走路(約1200m)が発展したものとされています(すぐ北側に並行する誘導路が約1200mなので、旧陸軍基地の滑走路はこちらだったのかもしれません)。
ロシア軍の群島最大の飛行場だそうですが、日本が造ったものをベースにしてやっと最大にできているのを考えると、戦後如何にソ連が開発してこなかったかがよく分かります。
旅客機も発着していましたが、2014年に新空港(当時のイトゥルップ飛行場 Аэропорт Итуруп)が完成して、民間機の発着はなくなったようです。

・天寧飛行場跡地(GoogleMap)=旧海軍側、左下が現在使っている滑走路
https://www.google.co.jp/maps/@44.9225618,147.639962,1631m/data=!3m1!1e3?hl=ja

この飛行場は、湾に突き出た植別(うえんべつ)岬付近にある海抜15m程度の平地に整備されています。地形図を見る限りでは、海岸沿いは崖状のようですから、イメージとしては礼文空港や函館空港のような感じでしょうか(標高は天寧の方が全然低いですが、、、)。
ここ天寧飛行場の少し南側、小さな河川の河口付近(湿地帯のようです)には「タマカラウス」という地名が付いています。「ラウス」は「低い所」という意味があるようですので、飛行場のある高地と対比になっていると考えられます。
根室市内東根室-花咲間の旧海軍の不時着飛行場があった位置が、海岸は絶壁で、高くなったところに平地が広がっています。その付近の海岸くぼ地がワッタラウス(ヲワッタラウス)と言うのですが、似たような感じなのかもしれません。
ちなみに、現在の滑走路のやや北寄り付近で河川(ウエンベツ川)が横切っていますが、滑走路のすぐ東側で10mほど落ち込む地形になっています。

この飛行場に関しては、平和祈念展示資料館のシベリア抑留記の一つで、8月25日に武装解除されたあとに集合させられたことが記されています(その後北海道に戻るのかと思ったらシベリアへ抑留されたという手記)。

・平和祈念展示資料館
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/yokuryu/11/S_11_072_1.pdf


択捉島:年萌水上機基地
単冠湾の北側、留別村年萌(としもえ)にあったのが水上機用基地です。
年萌湖にあったとされますが、現在は跡形もありません。

年萌湖と単冠湾の間は標高が3mほどの平地が広がっています。ここに、終戦まで年萌の集落があったと言いますが、Google Mapを見る限りでは、現在は人家はほとんどなくなっているようです。択捉島の西海岸(北側海岸)は冬場は流氷に閉ざされるため、物資はここで陸揚げし、留別湾に合った留別本町をはじめとした択捉島各地へ陸路で運ばれていたとのこと。そのため、当時はある程度栄えていたようで、幹線道路が発展したと思われる海岸沿いの道路が、天寧からここから内陸に転じ、留別方面へと延びています。

湖の東側を少し山側に入った所で道路がT字に分岐していますが、この位置でも標高は2mとかなり平坦です。ここは瀬石(せせき)と呼ばれ、ここから分岐した道を約2キロ東へ進むと、少し山に入った場所に何やらたくさんの施設(ロシアの軍施設?=6月に新型コロナウイルス感染症(COVID-19)患者の軍人が出たと報道されています)が集まっています。この建物領域の北側には瀬石温泉があったそうです。
ちなみに、年萌から約8キロほどほぼ真北にある西海岸の留別本町は、択捉島第二の規模の街だったようですが、今は海岸沿いに建物が数件建っているだけのようです。

単冠湾は、真珠湾攻撃の出撃拠点。年萌は陸軍機関砲陣地もあった場所で、対岸の天寧の基地と合わせて、戦時中は重要な日本軍の拠点だったようです。
択捉島が第二次世界大戦と切っても切れない存在であったことがよく分かります。

・年萌湖付近(Google Map)
https://www.google.co.jp/maps/@45.0255376,147.7169871,4605m/data=!3m1!1e3?hl=ja


択捉島:蘂取第一〜蘂取第三
旧陸軍により造成された飛行場群です。択捉島北部に位置する三つの飛行場ですが、蘂取(しべとろ)第二は結局造成されなかったようです。蘂取第一が昭和19年に完成しています。

Google Mapでは、溶けかかった滑走路跡が二か所確認できます。一つは紗那村(しゃなむら)留茶留原(ルチャール原)、もう一つは蘂取村のトウロ沼西側に残っています。
留茶留原のものは南北方向に約2800m、トウロ沼西側のものは北西-南東方向に約1200mあります。戦時中に造成された飛行場は滑走路長さが、蘂取第一は1600m、蘂取第三は1400mとされています。航空写真で見る限りでは、実際の跡地は前者は長すぎ、後者は短いと見られます。

留茶留原の滑走路跡地は、戦後整備されたような立派な誘導路を持つb型をしています。戦前の軍飛行場に多いのは、トウロ沼西側のもののような、鉄アレイ型。このため、戦後にソ連によって造成された可能性があります。国土地理院提供の古地図では、唯一古い地図である1971年の20万分の1地図(別飛)にはすでにまっすぐな道路が描かれています。
周辺地域の状況から、トウロ沼西側のものが第一飛行場跡地と思われますが、留茶留原のものと合わせ、どれが蘂取第一〜蘂取第三に当たるのかはよく分かりません。

留茶留原の滑走路跡地は、標高が10m程度。択捉島内では唯一、東前と西前の海岸(このあたりでは南北位置ですが、、、)が低地で結ばれた地域になっています。すぐ東側に標高437mの留茶留山が迫り、西側は標高253mの朱須山など200mほどの高地が広がる、山に挟まれた低地です。雰囲気は新島空港や八丈島空港に近い感じなのかもしれません。
一方のトウロ沼西側の滑走路跡地は、標高150mほどの台地上の場所に位置しています。
二つの滑走路間は直線距離で約9キロ離れています。当時の北海道ではこのくらい離れるのは普通でしたが、北側の海岸沿いを幌須(ポロス)まで進み、そこから山道を進む必要があり、行き来は容易ではなさそうです(海岸線は急崖ですが、海岸沿いを道が続いていた模様)。

留茶留原の滑走路跡地は、最も近い別飛(べっとぶ)集落から東へ約23キロの地点。一方で、トウロ沼西側の滑走路すら、蘂取の街から南西へ27キロも離れており、蘂取との行き来はほとんどなかったのではないかと推定されます。
ネットサーフィンして見つけることができる昭和初期の蘂取の写真などを見ると、かなりの家屋があったようです。戦時中よりも島内は明らかに廃れているように思われますので、もしかしたら、ソ連に攻め込まれるまではもっと通りやすい道があったのかもしれません。しかし、少なくとも、現在は、Google Mapで見ても、別飛より東側に家屋などはほぼ見当たらず、道路も切れ切れの山道しかなく、行き来は難しそうです。
そして滑走路周辺に掩体壕や建物があったような跡は見えないので、実戦でどこまで使われたのかは不明です。留茶留原の滑走路の左側にあるミステリーサークルが気になりますね、、、。

Google Mapをよく眺めると、トウロ沼の方は、滑走路跡地北側に菱形の無蓋掩体壕のようなものが複数見られるほか、滑走路東側にはコの字の構造物がいくつか見えます。

・トウロ沼西側の滑走路跡地(滑走路長約1200m、Google Map)
https://www.google.co.jp/maps/@45.3056253,148.3919459,1983m/data=!3m1!1e3?hl=ja
・留茶留原の滑走路跡地(滑走路長約2800m、Google Map)
https://www.google.co.jp/maps/@45.252512,148.313515,5948m/data=!3m1!1e3?hl=ja

また、蘂取第二については、戦後直後の米軍資料で、トウロ沼から年瑠璃(としるり)へと向かう道路の途中、道の南側にあると推定している図が残っているそうです。トウロ沼と年瑠璃間の道路はGoogle Mapでは見当たらないのですが、国土地理院の平成3年の5万分の1地形図を見ると描かれており、年瑠璃から西に三キロほど進んだところの南側に平地が広がっていることが分かります。Google Mapで見ると、年瑠璃に至る道路は、年瑠璃から真西方面幌須へ延びる道(幌須山火砕流台地の尾根道)があります。この道を年瑠璃から4キロ強西へ進んだところで小さな道が北に分岐するのですが、その辺り一帯が平らで、飛行場に使えそうです。
湿地帯のようにも見えますが、地形図を見る限りでは、上記トウロ沼西側の滑走路跡地と同様に、西側にある幌須山の噴火による火砕流台地の先端の平地です。
国土地理院の地図では、最新の2.5万分の1地形図にその道が描かれています。また、平成4年の2.5万分の1地形図には、幌須-年瑠璃を結ぶ道が描かれています(トウロ沼-年瑠璃間の道も存在)。
こうやって見ると、平成3年の5万分の1地形図は、Google Mapで見える現代の道路配置とかけ離れたところが多く、もしかしたら戦時中の道路を反映させているかのような道路配置なのかもしれないですね。

・蘂取第二の予定地?だったとも思える火砕流台地
https://www.google.co.jp/maps/@45.2851129,148.4478823,1412m/data=!3m1!1e3?hl=ja


択捉島:紗那沼
択捉島最大の街は、中央北側のナヨカ湾に面した紗那(ロシア名でКурильск(クリリスク=意味はクリル市))で、戦時中も現在もここに人口が集中しています。

戦時中は、この近くには飛行場はありませんでしたが、集落内にある紗那沼では水上機の発着した記録があります。昭和6年8月、リンドバーグが、極東航路開拓調査でニューヨーク-アラスカ-根室-霞ヶ浦-大阪-南京と向かう途中で、択捉島紗那沼に降り立っています。

紗那沼が飛行場となることはなかったようですが、2014年に、東方7キロほどの山中に、ロシアにより、新空港のヤースヌイ飛行場(Аэропорт Ясный、開港当初はイトゥルップ飛行場(=択捉飛行場)と言う名称でした/オーロラの公式サイトでの予約欄はКурильск表示)が造成されています。現在は、ユジノサハリンスクからオーロラが週4便程度、その他千島列島の島々に複数の定期便が飛んでいます。
この付近は、紗那と別飛という現在の二つの街の間の地域に当たります。標高110mほどの高台にやや平らな領域が広がっていて、飛行場造成にちょうど良かったようです。前述の天寧飛行場(ブレヴェスニク飛行場)の場合、空港から紗那までは60キロほども離れていましたが、わずか7キロ程度になったことで、最大の街への行き来が大幅に改善しているようです。
ブレヴェスニク飛行場は軍専用化されていますが、現在は、紗那-ブレヴェスニク飛行場間の道路を改善する計画が進んでいます。

・紗那沼とヤースヌイ飛行場(右方)
https://www.google.co.jp/maps/@45.2324476,147.8778906,5456m/data=!3m1!1e3!5m1!1e4?hl=ja


国後島:東沸湖
択捉島が旧日本軍によって数多くの飛行場が造成されたのに対して、戦時中国後島には飛行場はできませんでした。
島の中心部にメンデレーエフ飛行場(Аэропорт Менделеево/オーロラの公式サイトでの予約欄はЮжно-Курильск(ユジノクリリスク=意味は南クリル市)表示)がありますが、これは戦後にソ連が造成したもので、択捉島のヤースヌイ飛行場と同様に複数路線が飛んでいます。ユジノサハリンスクからは週4、5往復の運航ですね。

戦前に飛行場は整備されていませんが、戦争中は、水上飛行機が一部の海岸を離着陸していたようです。
また、南部にある東沸湖(とうふつこ)には、前述のリンドバーグが離着陸した記録が残っています。この時、リンドバーグは、東沸湖を飛び立ってから、ほんの数十分で根室(ワッタラウスの飛行場)に降り立っています。それだけ北海道本土から近いことが分かる出来事だったようです。

この東沸湖は、国後島内では唯一、東西の海岸線が低地で繋がっています。前述の択捉島の留茶留原に近い存在です。知床半島南側羅臼町からは30キロ強なので、超望遠の双眼鏡で見えそうな気がします。クジラの見える丘公園あたりから真正面やや左方向です。

・東沸湖とメンデレーエフ飛行場(右方)
https://www.google.co.jp/maps/@43.9350718,145.5894562,9383m/data=!3m1!1e3!5m1!1e4?hl=ja


北方領土の飛行場は、上に挙げたところにしかありません。
色丹島と歯舞群島には飛行場はないため、航空機では行くことができません。

Google Mapばかりで見てきましたが、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)」では、残念ながら、北方領土区域は、古い空中写真がありません。ソ連占領地域なので、戦後直後に米軍が写した空中写真がないんですね。最も新しいものは、平成に入ってからの地形図になってしまいます。
そんな新しい情報しかありませんが、地名などは良く分かるので、じっくり見てみてはいかがでしょうか。

20200902b.jpg
天寧飛行場に雰囲気が似ている?根室のワッタラウスの飛行場跡地
リンドバーグは国後島からここへ降り立ったそうです


渡航したくてもできない北方領土
非常に軽くですが、北方領土の飛行場を見てみました。

北方領土へは、樺太からロシア国内線の船便と航空便がありますが、ロシア経由でロシア国内線で渡航することは、ロシア国内であることを認めてしまうことにあるため、日本国は自粛を呼び掛けています。

北方領土なんて遠い島だと思われている人も多いと思うのですが、国後島は、最も近い野付半島からなら16キロ。知床半島からなら30キロ程(羅臼から30キロ弱)しかありません。
似たような距離は以下のようなものがあります。
・函館空港展望デッキ〜下北半島大間崎 30キロ弱
・東京国際空港展望デッキ〜木更津 16キロ程・〜千葉市 30キロ弱
・大島空港展望デッキ〜伊豆半島 30キロ弱
・中部国際空港展望デッキ〜鈴鹿 16キロ程・〜津市 30キロ弱
・神戸空港展望デッキ〜関西国際空港スカイビュー 20キロ強
・山口宇部空港展望デッキ〜北九州空港展望デッキ 25キロ弱
・大分空港展望デッキ〜佐田岬 30キロ強
・屋久島空港ターミナル〜種子島 20キロ強
・奄美空港展望デッキ〜喜界島 25キロ弱
・那覇空港展望デッキ〜慶良間諸島 30キロ弱
意外と身近であることが分かると思います。

空港間の距離で言うと、北海道本土の中標津空港(根室中標津空港)から見ると、国後島のメンデレーエフ飛行場まではわずか70キロほど、択捉島の天寧飛行場までは約250キロです。国後島は、なんと、東京国際-大島間・長崎-壱岐間・出雲-隠岐間約90キロ、長崎-福江間約100キロよりも短距離です。中標津からならほんの数十分で飛べるような位置にあるのに、日本人は渡航したくても、ほぼ渡航できない場所になっています。

第二次世界大戦の終戦から75年経って、平和に自由に誰でも遠くへ飛んでいけるようになりました。一方で、今年は、COVID-19がパンデミックとなり、自由な渡航が難しくなり、自由な渡航の尊さを実感する年になっています。
自由に海外へ飛べる時代に、COVID-19も関係なく、自国領土に行けもしないー。そんな悲しい場所が北方領土です。
太平洋戦争の幕明け地でもあった北方領土。そんな土地が、9月の最後まで戦争(というかその直後の侵略)に巻き込まれ、戦後処理で取り残され、三四半世紀も自由に行き来もできないとは、なんという皮肉でしょうか。

75年経っても戦争の忘れ物が、すぐ目の前に残っています。
日本人としては近いうちに平和に自由に北方領土へ行ける日が来てほしいですし、北方領土も千島列島も先住民はアイヌの人たちですから、この領土問題をうまく解決してほしいところです。

現在は、納沙布岬をはじめ、根室〜別海〜標津〜羅臼あたりから、北方領土を望遠視察するだけなら出来ます。
STAY HOMEが明けたら、まずは、根室中標津空港から道東へ行って実物を見て、戦争の忘れ物を感じてみませんか。

空港は、ひと、もの、心を繋げる結節点です。
過去を振り返ることで、現在に活かし、未来を見つめる。
今日はそんな繋がりを感じる日なのかもしれません。
今日ぐらいは、興味のある話題からで良いので戦争を振り返り、
平和で自由な渡航について考えてみませんか。


戦後75年特集は、今回で終了します。


戦後75年特集 終戦から三四半世紀、戦争を空港から考える(8月15日更新)
http://johokotu.seesaa.net/article/476735706.html
戦後75年特集 沖縄戦停止三四半世紀、沖縄と空港を考える(6月23日更新)
http://johokotu.seesaa.net/article/475875218.html
航空戦が起こった第二次世界大戦の欧州終戦から三四半世紀(5月9日更新)http://johokotu.seesaa.net/article/475004801.html

戦後70年特集 戦争と空港を考える(戦後70年の時の特集、2015年8月15日更新)
http://johokotu.seesaa.net/article/423956544.html

過去に配信した北方領土が絡んだ旅行記
・中標津・釧路・東京国際への旅行記(2日目)
(根室に行って北方領土を望遠視察した時の旅行記、2010年05月23日更新)
http://johokotu.seesaa.net/article/152746628.html
・稚内・利尻・礼文・弟子屈への旅行記(旅行後)
(旧軍飛行場を取り上げた旅行記のあとがき、2009年05月25日更新)
http://johokotu.seesaa.net/article/123095638.html

過去に配信した北方領土ネタ
・択捉島 ロシアが新空港を全面開業へ(2014年09月11日配信)
http://johokotu.seesaa.net/article/405261837.html
・北方領土を空から視察(2011年02月20日配信)
http://johokotu.seesaa.net/article/186784282.html
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この記事へのコメント
こんにちは。管理人です。

今年の北方領土の現地墓参は中止になってしまったようです。
三四半世紀という節目の年。非常に残念です。
渡航することの難しさを痛感します。

■今年度の四島交流等事業に関する知事談話(北海道公式サイト)
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/tkk/hodo/gcomment/r2/r020901.htm
■北方墓参断念 全交流事業が中止(NHK公式サイト)
https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20200831/7000024353.html
Posted by johokotu at 2020年09月05日 09:20
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