■戦後70年特集 戦争と空港を考える
今日8月15日、太平洋戦争終戦の日から70年となりました。
私自身、戦後生まれですから、当時のことは何も分からない身です。しかし、70年間、世界の平和をリードしてきた日本で、今、平和と繁栄を、何にも考えずに享受できている一人です。
戦後70年を迎えるに当たり、空の駅情報館では、戦争と空港について取り上げたいと思います。
太平洋戦争は、飛行機の威力が証明された戦争だったようですが、それ故、日本の空港の多くは、戦争直前〜戦時中に造られた飛行場を起源とするものが多数存在しています。戦時中に造られた飛行場は、突然土地を追われ、村人総動員で突貫で造られたものも少なくありません。
平和な現代、旅行やビジネスに快適に利用できる空港も、戦争があったから、今快適に利用できる、とも言えます。
しかし、97ある空港の沿革を、国土交通省の公式サイトなどで見てみても、戦争中に出来たことや戦時中の活用内容に触れたものは“皆無”です。
これは、航空法に基づいて空港となったときからの沿革しか載せていないからなのですが、戦争の産物である歴史が軽視されているようで、なんとも残念でなりません。
戦時中、日本各地に多くの飛行場が建設されました。戦後70年目の終戦の日を迎えた今日は、全国に散らばる「空港」という“戦跡”を、戦争直前〜戦時中に開設されたものを中心に少しだけ紹介します。
■中標津空港(根室中標津空港)
戦後長い間、日本最東端空港となっている中標津空港は、戦時中に開場した歴史を持つ空港です。北海道、特に道北・道東地域は、北からの攻撃に備えて戦時中に数多くの飛行場が開設されており、中標津もその一つでした。
昭和19年に旧海軍の標津第一飛行場として開場しており、周囲には軍施設が多数存在。10キロほど北東には標津第二飛行場も開設されています。
戦後はしばらく廃港状態となり、昭和37年になって民間空港として活用を再開。戦時中に出来たインフラをうまく活用した一例でもあります。
厳密には、現在の滑走路付近は、旧飛行場の周辺部に当たり、現滑走路付近は、戦時中は多数の掩体壕が設置されていました。旧飛行場滑走路の位置は現在の中標津空港のすぐ南側で、平成2年まで使用されていた旧空港区域。現在は、ゆめの森公園となっています。
鉄道もなくなった今、中標津空港は、道東の重要な交通拠点と市民の憩いの場所として、機能し続けています。
中標津空港北東にある標津第二飛行場跡地の様子。掩体壕が残っています。
■仙台空港
東北では、東日本大震災で大きな被害が出た仙台も戦争体験空港です。こちらは、戦時中ではないですが、開戦前年の昭和15年に開場しています。
旧陸軍基地として開設されたもので、戦後は米軍基地を経て、東北一の民間空港へと発展しました。
大震災後にはトモダチ作戦により、米軍の協力で短期間で空港を再開するなど、アメリカとの戦争中には考えられないような出来事もあった、戦後70年の平和を象徴するかのような空港です。
そんな津波にもあった仙台空港で戦争と平和を考えるとき、抜きにして語れないのが、空港近くにある下増田神社です。
東日本大震災では、周囲の施設は津波で根こそぎ流されてしまいましたが、下増田神社だけは、本殿が奇跡的に残りました。
実は、この神社は、旧仙台陸軍飛行学校にあった航空神社を昭和20年に合祀した有難い空の神さま。戦後長く親しまれ、そして津波にも耐えたのは、まさに有難い出来事です。
戦後70年を仙台空港で考えるなら、ぜひ訪問したいですね。
仙台空港のすぐ東側にある下増田神社。津波にも耐えた有難い空の神さまです。
■調布飛行場
東京にも、開戦の直前、昭和16年に開場した空港があります。
調布です。
伊豆諸島への定期便が飛んでいますが、多くの人は、ANAでもJALでもない、よく分からない弱小会社の小型機が道楽で飛ばしてる小さな空港といった程度の印象ではないでしょうか。
しかし、戦時中は現在よりかなり広い敷地を持つ、首都防衛上、非常に重要な飛行場でした。
先月、離陸直後の飛行機が墜落し、地上側でも死者が出るという痛ましい事故が起きてしまいましたが、実は住宅地である墜落地点は、戦時中の旧飛行場区域からギリギリ外れるものの、掩体壕があった区域に当たります(30年ほど前に墜落事故が起こった調布中学校も飛行場跡地で兵站宿舎跡地に当たります)。テレビで何度も映像が流れた運動場をはじめ、東京外国語大学や味の素スタジアムなど周辺にある大きな建物は、みな旧飛行場区域に建っています。
東京のど真ん中にあるにもかかわらず、調布飛行場のまわりには戦跡であることを示すものがたくさん残っていることでも有名。旅客ターミナル北側の公園や少し離れた府中街道沿いには掩体壕が残されており、周辺道路は昔の飛行場区画の形そのままです。
戦時中、調布飛行場周辺には航空産業の施設も集まっていました。現在も、その流れから航空産業関係の会社が集まっているのが特徴。当時から空港近くにある国立天文台は重要な施設でしたし、日本の航空宇宙産業をリードするJAXAの航空宇宙センターがあるのもの、そんな歴史があるからです。
周囲はすっかり都市化され、平和利用にもかかわらず飛行を嫌がられ、定期便は細々継続しているだけなのはなんとも残念な状況です。
都内には戦跡空港などないと思っていたあなた、ぜひ調布を訪ねてみませんか。戦争という過去と、平和な現在、そして空高い未来に出会えるかもしれません。
飛行機との距離が近い調布。周辺の公園部分は戦時中の元飛行場区域です。
■名古屋飛行場(名古屋小牧空港)
大都市圏の空港としては、名古屋飛行場も戦時中の開場です。昭和19年に旧陸軍基地として誕生しました。
戦後は米軍基地を経て昭和35年に空港に指定されています。
現在は空自が同居する空港となっています。民間専用のセントレアが開港し、旅客便が大幅に縮小してからは、やや自衛隊の活動が目立つようになってしまっています。
愛知県は日本における航空宇宙製造業界の集積地域となっています。名古屋飛行場は、その中心として、三菱航空機がMRJの製造拠点として整備し、近年、注目度が上昇中。すでにターミナル周辺では、製造に使用する巨大な建屋が多数建設されています。
三菱重工業が名古屋飛行場に隣接した小牧南工場を造ったのが戦後まもなくの昭和27年。ここに空港があったから、三菱も製造拠点を設けたわけで、戦時中に飛行場を造ったことが、戦後の日本の航空産業に繋がったことは、なんとも興味深いですね。
戦時中は軍事的に開発が進んだ航空産業。戦後70年を経て、民間利用のために開発されるようになったことを、日本で一番身近に実感できる空港かもしれません。
名古屋飛行場にあるMRJのモックアップ。軍用機から民間機へ。名古屋での開発に注目が集まっています。
■徳島飛行場(徳島阿波おどり空港)
■松山空港
■高知空港(高知龍馬空港)
四国の空港はすべてが戦争直前〜戦時中開設の飛行場が起源、という珍しい特徴があります。徳島は昭和16年(旧海軍)、松山は昭和18年(旧海軍)、高知は昭和19年(旧海軍)の開場で、高松も旧空港が昭和19年(旧陸軍)に誕生しています。
松山と高知は、空港周辺に数多くの掩体壕が残っています。特に高知は、空港南部にまとまって壕が残っている地域があり、戦跡であることを意識させられます。
徳島は、防衛省が管理している共用空港。民間利用はどちらかというとオマケで、いまだに戦闘機が普通に飛び立っています。
高松は、旧空港が平成元年まで使われていました。旧空港は再開発され、香川インテリジェントパークとして有効活用されています。
戦争がなかったら、四国の空港事情は違ったものになっていたかもしれません。
徳島空港で旧ターミナル時代に掲げられていた空港の歴史年表。年表のスタートは戦後からでした。
■福岡空港
九州一の福岡空港も戦時中の開設。終戦間近の昭和20年5月に旧陸軍飛行場として使用開始されています。
すぐに終戦を迎え、戦後は長く米軍基地となっていました。昭和26年に戦後初の民間航路がスタートしたものの、米軍からの全面返還は昭和47年までかかっています。
民間空港ですが、現在も米軍エリアが存在し、空自も同居。混雑激しい旅客便の合間をぬって戦闘機なども離着陸します。
博多まで地下鉄で5分という都市型空港でありながら、戦時中の名残も多数。
外周道路の形が当時の区画を継承しており、第3ターミナル前でなぜかへの字に屈折する外周道路は交差滑走路の影響。また、空港南東部に米軍弾薬庫が残っているなど、空港周辺にはいくつか戦跡が見られます。
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスでは、航空写真が公開されています。福岡空港周辺部は、飛行場開設前の戦前、戦後直後、その後の写真が公開されており、見比べるとその変化が非常によく分かります。
日本一便利な空港も戦跡空港であることを実感できます。
ターミナルが大きい福岡空港。写真左側の道路が屈折しているのは、写真の位置から奥方向に交差滑走路がのびていたため。
■宮崎空港(宮崎ブーゲンビリア空港)
宮崎も昭和18年に旧海軍基地として開設されています。
かつては交差滑走路があるなど、今よりも広い範囲に飛行場が広がっていました。交差滑走路跡地の一部は、調整池として活用されています。
宮崎は、現役の空港のなかで、空港ターミナルから掩体壕がよく見えることで有名。戦時中のものが結構残っていることでも知られています。
空港の南西側にかつての正門が遺されているほか、慰霊碑が建立されています。
掩体壕は、ターミナルから見える空港北西側のほか、現在の空港区域から少し離れた南西側などに点在。戦跡であることを実感できます。
機材の大型化に対応するため、九州をはじめ多くの県で、戦争を越えた飛行場が新しい場所に移されましたが、宮崎は航空拠点として今も大切に活用を続けています。
ターミナルの展望デッキから見ると、飛行機の向こうに掩体壕が。一番目立つのは写真の飛行機の左側のひとつです。それに隠れた向こう側にもう一つ、飛行機の右側にも木々の向こうに一つ、合計3つあります。
■伊江島空港
戦争でその運命を翻弄された空港もあります。
日本唯一の地上戦があった沖縄の伊江島空港です。
伊江島では、三つの滑走路を整備するために戦時中に建設が始まったものの、米軍上陸までに三本は完成せず、一部は米軍があとから整備したという複雑な歴史を持ちます。
そして、今では日本人が気軽に利用できない空港になっています。
実は、三本の滑走路のうち、一番西側は米軍基地の一部として取り込まれ、戦後70年経った今も、日本人は地上から目にすることはできません。
中央の滑走路も、米軍管理下にあります。こちらは廃墟のような状態ですが、補助飛行場とされています。囲いはなく、自由に出入りはできますが、米軍が普通に訓練で使用しており、使用時には立入禁止になります。
そして、日本人が利用できるのが、一番東側の滑走路で、ここが伊江島空港になります。ところがここも、利用の際には米軍と事前に協議が必要であるなど、気軽に利用ができないのです。
伊江島は戦時中、東洋一と言われた戦闘機の拠点でした。このため、米軍からも総攻撃を受け、島内には戦跡がたくさん残っています。
戦争が終わって70年経ってもなお、戦争を意識させられる、日本で一番哀しい空港かもしれません。
戦時中に司令部がおかれたタッチューからみた島の西側。目立つ滑走路は伊江島空港で、その奥に補助滑走路が横に走っています。一番西側の滑走路は見えません。
■宮古空港
南の島の空港は、戦争と空港が切り離せないところが多くあります。
そのうちのひとつ、宮古空港は、南方防衛のため、昭和18年旧海軍飛行場として開設されました。
宮古空港では、入口で戦時中開場であることを実感できます。空港入口脇に御嶽があるのですが、その案内板に空港開設の経緯が細かく書かれています。
この御嶽は、元々空港地域の集落にあったもので、突然の飛行場建設で土地を追われた旧住民たちの心の拠り所として残っているそうです。
宮古空港に行ったらぜひ一度見ておいてほしいところです。
そんな宮古群島では、橋を渡った下地島にも空港があります。戦後、民間航空会社の訓練用として開設されたものです。国防の観点から、自衛隊を駐留させたいとの意見もありましたが、開設時に、航空訓練と民間航空以外に使用する目的はないとする覚書が交わされており、断念となりました。
日本で、戦争と空港利用を一番考えさせられる空港かもしれません。
宮古空港入口にある飛行場開設の経緯に関する案内板。戦時中誕生であることを感じられます。
この他に、前述の徳島飛行場も含め、防衛省が管理している空港も戦争直前〜戦時中に開場した空港が多数あります。ざっと挙げてみると、下のような感じです。
■札幌飛行場(札幌丘珠空港)
昭和17年旧陸軍基地として開場。
■三沢飛行場
昭和16年旧海軍が開場。現在は米軍とともに管理しています。
■小松飛行場
昭和19年旧海軍基地として開場。
■美保飛行場(米子鬼太郎空港)
昭和18年旧海軍が開場。
これらの空港は、自衛隊が使用していて戦闘機が普通に飛び立ちますから、戦争と空港が切り離せないことを実感させられますね。
石川県立航空プラザに掲げられている戦時中の小松飛行場の様子。今より大きく交差滑走路があったことが分かります。
こうやってみてみると、現在の空港には、戦争直前〜戦時中起源のところが多数あることが分かります。上記以外にも、山形や松本など戦時中生まれの空港があります。
また、今回は戦争直前〜戦時中に開設された空港をクローズアップしましたが、戦争よりもずっと前から開設され、戦跡となった空港も多数あります。
戦時中は日本全国でたくさんの飛行場が運用されていました。
中標津のように同じ町のなかで二つも三つも飛行場ができたところもあり、日本国内には戦時中、今の空港数とは比較にならないほど多くの飛行場があったと言われています。
それらの飛行場は、紹介した空港のように、戦後、民間空港となって有効に活用を続けたところもある一方、自衛隊のみが使う飛行場になったところや公共施設用地として転用されたところもあります。
そして、飛行場として継続されず、ただの更地になり、忘れ去られたものも多数あるのだそうです。
あなたの町にも、もしかしたら、飛行場があったかもしれません。
戦後70年。今年の夏は、戦跡の空港を訪ねて、空港だからこそ感じることができる、戦争と平和について考えてみてはいかがでしょうか。
2015年08月15日
この記事へのトラックバック
最近、地元の美郷中学校が戦時中の体験について調べているという新聞記事を読み、当町での陸軍による飛行場建設に興味を持ちました。
上の記事では、全国的にも戦前・戦中に起源を有する飛行場が数多くあるのだとということが分かり驚きました。
当町にあった六郷飛行場は水田となってしまいましたが、戦時中に飛行場建設が行われたことを忘れてはならないと感じているところです。
中学校のWEBサイトでは戦時中に建設された六郷飛行場について紹介していますので、よろしければご覧ください。
http://www.obako.or.jp/misatojh/study.html#socialstudies
>美郷町民さん
いらっしゃいませ。
戦時中に軍用に飛行場として活用されながら、戦後民用に全く活用されていない場所が非常に多く、全国に広がっています。
軍事機密とされている場所も多かったうえ、戦後の混乱期に放置され、忘れ去られた場所も多いようです。
このため、鉄道廃線のようにまとまった資料も少ないので、地元で詳細な記録を残っていることは貴重です。地元の学生が興味を持つのは良い方法かもしれません。
それでは失礼します。
>Noriko Kanaiさん
いらっしゃいませ。
調査している内容により、参考文献も変わってくるかと思います。
日本は、航空に関する本は多数出ていますが、空港に関する本はほとんどなく、一般向けに出ている資料で全空港の歴史等を網羅したものはほぼないと思います。
県空港や平成の空港ですと、建設関係の資料(環境影響評価書)等が出ていることがあります。
また、先月に成山堂書店から世界の空港事典という本が出ています。各空港を二ページ程度ずつまとめていますので、簡単な内容なら参考になるかもしれません。
過去には空港専門雑誌なども発刊されています。新橋に航空図書館がありますので、そちらに参考になる資料があるかもしれません。
それでは失礼します。