◇戦後75年特集 終戦から三四半世紀、戦争を空港から考える
今日8月15日、第二次世界大戦の終戦から三四半世紀、75年となりました。
航空機の大量投入で航空戦が起こった大戦を、航空や空港の話題から振り返り、未来を良くしていきませんか。
今年2020年は、第二次世界大戦終戦から75年となる年です。三四半世紀という節目の年となりました。一世紀目は直接体験した人に時間が少ないでしょうから、今年は非常に重要な節目と言えるかもしれません。
広島では75年は草木が生えないと言われてきました。戦後日本が世界に蒔いてきた平和への祈念がやっと芽吹く年になったということでしょうか。
75年目の夏はそんな夏ではないでしょうか。
私自身は昭和後半生まれなので、日本が平和に変わる過程に何も貢献はしていません。しかし、日本では、戦争前後で、物の考え方やインフラなどが大きく変化したと聞いています。そして、戦争の結果が良くも悪くも今の日本に繋がっていると考えています。
空港を調べていると、実はその典型例の一つが空港であることに気が付けます。
ウイルスとの戦争で平和的な自粛すらろくに出来ない人間が、不幸にも人間同士で争ったのが第二次世界大戦でした。二度と同じ過ちを繰り返さず、新しい生活に活かせるところは活かしていくためにも、戦後75年に当たり、日本空港情報館では、空港の話題を通じて戦争を取り上げます。戦争の話題の中でも非常にニッチな部分ですが、空港の話題から、今の生活と戦争との様々な繋がりを感じていただき、僅かでも戦争を振り返るきっかけになる助力になればと思います。
今年は、まず、欧州での戦争終結75年について、5月8日に戦勝国が多い海外の様子を取り上げました。日本からの目線だけでは足りないことに気付けました。
http://johokotu.seesaa.net/article/475004801.html
6月23日には、沖縄戦停止75年で、沖縄の空港の話題から戦争と平和を考えました。本土からの目線だけでは足りないことが分かりました。
http://johokotu.seesaa.net/article/475875218.html
そして、75年目の終戦の日を迎えた今日は、全国に散らばる「空港」という“戦跡”を、少しだけ紹介します。
戦争当時に飛行場だった場所は、そのまま自衛隊基地や空港として活用されているところがあります。しかし、跡地活用は、それだけではありません。江戸時代に城だった場所の跡地が官庁街や学校になるというのが定番ですが、それと同じように、現在、様々な使われた方をしています。
飛行場跡地は広大です。終戦直後、航空産業が禁止された日本では、飛行場は無用なものの象徴みたいなものでした。このため、飛行場跡地は、引揚者などの衣食住を満たすために農地として払い下げられたり、住宅地として活用したりしています。また、広大な敷地が必要な工場になったところなども多く、跡形もなく消えていることもしばしばです。官庁街や学校などになり、人々の生活を支える場所になっているところも多いです。戦争中飛行場だったところが、戦後75年で平和な日本の発展を支える存在であったことは事実です。
今回は、そんな飛行場を、特に、戦時体制で半強制的に召し上げられたところも多い、戦争直前〜戦争中に旧日本軍の基地になった場所を中心に取り上げていきます。
70年の時にも複数空港を取り上げますので、合わせてご参照ください。
http://johokotu.seesaa.net/article/423956544.html
■旧女満別空港
女満別は、気象観測用として昭和初期に出来た空港です。旧軍基地となったのは戦争開始後の昭和17年で、旧海軍の飛行場(第二美幌航空基地)となりました。当時使われていたのは、昭和60年まで使われた旧空港区域等で、現在の空港の北側にその跡地が残っています。戦時中の領域は、現在の大空町市街地も含む広大なものでした。
旧空港として活用された範囲は、メガサプライヤーのボッシュのテクニカルセンターになっています。滑走路跡は、長い直線であるため、自動車のテストコースとして最適だったようです。旧女満別空港は元々競馬場だった場所。戦争を経て、馬から、飛行機、そして自動車を活用する場に変わっていった興味深い存在です。
■山形空港(おいしい山形空港)
山形空港は戦時中の昭和19年、旧海軍の飛行場(神町航空基地)として開場した飛行場です。
当時は、現在の空港区域から南東にかけての広い範囲が基地になっていました。空港南東方面の少し離れた所に陸上自衛隊神町駐屯地がありますが、これは、基地の一部がそのまま引き継がれたためです。
また、すぐ東側を走る奥羽本線は当時、基地の物資等の輸送に活用されていて、空港最寄駅の神町駅から専用線も引かれていました。戦後、飛行場が米軍基地となった際、この駅には連合軍鉄道運輸司令部事務所が置かれていました。駅舎も欧米風の重厚なものに建て替えられ、占領された記憶が残るものでしたが、2年前に建て替えられてしまいました。三四半世紀という時間で、こういった遺産が徐々に消えつつあることを実感できる街になっています。
山形空港は、東京五輪の年(昭和39年)に民間空港としてスタートしています。空港概要のページでも取り上げていますが、当時は神町駅側にターミナル地区があり、今より利便性が高い空港でした。
日本には、戦争中より範囲が狭くなり、鉄道アクセスも不便になった空港がたくさんあります。山形空港を見れば、交通を総合的に考えない戦後日本ならではの特徴を感じることが出来るかもしれません。
■東京国際空港(羽田空港)、調布飛行場、大島空港、新島空港、八丈島空港
平和の祭典が延期になった東京。75年前、平和がなかった東京では、首都防衛のため、たくさんの旧日本軍の飛行場がありました。そんな中で、羽田は、民間が利用していたものを戦争中に旧海軍管理に変えた経歴を持っています。
当時は穴守稲荷周辺の民家も空港島の中に共存。飛行場自体は、旧整備場付近を占めるだけの小さなものでした。戦争中もそのまま飛行場が使われていましたが、戦後、連合国(米軍)によって、空港島全体が強制立ち退きで接収され、大規模に拡張されていきました。
日本の多くの飛行場は、戦時体制時にお国のために召し上げられたパターンが多いのですが、羽田は、終戦直後に連合国のために拡大接収された点で異色です。それが今では何倍もの広さになり、世界五指に入る利用者数を誇る空港として平和利用されているのですから、未来のことは本当に分かりません。
強制立ち退きの問題は今も尾を引いており、跡地利用の地元説明会では、立ち退きさせられた住民やその子孫が返還を強く求めるなど、未だに戦後の占領が話題になる空港となっています。そんな羽田には、米軍が占領した後、穴守稲荷の鳥居を取り去ろうとしたら祟りが起こってしまったという有名な話があります。この鳥居は沖合展開に伴って平成になってから移設できましたが、鳥居には奇しくも「平和」の文字が掲げられています。
東京の空港は、旧日本軍の飛行場を活用したところばかりです。
70年目の特集でも組んだとおり、調布は、開戦直前の昭和16年に開場した旧陸軍の飛行場です。
離島空港も、大島は昭和19年に造られた旧陸軍飛行場、八丈島は昭和3年に現空港の近隣地に旧海軍基地として開場し、その後終戦までに現在位置まで拡張されています。新島は、昭和19年に旧陸軍が造成しており、戦後農地になったのち、再び同じ位置に空港ができました。
※米軍が使用を続け、空域制限で話が出てくる横田も、開戦前年の昭和15年に開場した旧陸軍基地です。空港整備で揺れている小笠原の父島にも昭和12年に開場した旧海軍洲崎飛行場がありましたし、昭和11年に南鳥島、昭和12年に硫黄島にできた飛行場は、現在海上自衛隊が使用しています。
「東京だから、できる。新しい」平和の祭典が延期された代わりに、今年は「東京の空港だから、できる。新しい」平和を空港で感じてみませんか。
■松本空港(信州まつもと空港)
日本で最も空に近い空港である松本。空気が薄いため、離着陸が難しい空港として知られています。そんな場所にも戦時中、旧陸軍の飛行場がありました。技術的な面は、75年前からあまり変わらないということなのでしょうか。
現在の空港の北側半分とさらに北側に広がっていたのが松本飛行場です。75年前の昭和20年8月に完成した飛行場ですが、飛行機の離着陸は同年初期に既に始まっていたようです。現在の菅野小学校付近に格納庫群があり、三菱重工業名古屋製作所の組立工場としても活用されていました。南側の陸上競技場〜やまびこドームにかけての領域には、掩体壕が多数設置されていました。
松本では戦後暫くは飛行場がなくなっており、現空港は昭和40年に開設された比較的新しいものです。季節運航から始まり、ゆっくりじっくり平和に発展。今夏は五路線が運航するまでになりました。
人間が空高く舞い上がることができる。最も空に近い松本空港を調べれば、それがどんなに尊いことか、学べるのではないでしょうか。
■鹿児島空港と旧鹿児島空港→関連旅行記/関連旅行記
鹿児島は、現空港も、市内にある旧空港も、戦時中は旧海軍の飛行場として活用されています(現空港は少し区域がズレています)。
旧鹿児島空港は、戦前は鹿児島市営の水陸両用飛行場で、戦時中に旧海軍基地(鹿児島航空基地)に変化しています。戦後は民間空港として活用されたのち、今は県庁をはじめとする、平和な官庁街・住宅街へと変わりました。基地があった区域より海側が埋め立てられていますが、航空写真で見ると当時の区画が良く分かります。このように、戦時中の飛行場の区画がそのまま残っているところは数多く、戦争が今に繋がっていることを強く感じられる存在と言えそうです。
一方、現空港は、昭和19年に設置された旧海軍の飛行場(第二国分航空基地)の跡地などを利用して造成されています。跡地には空港公園があり、今は鹿児島空港を離着陸する民間航空機を眺められるようになりました。近づくことも憚られた当時からは想像もできなかったことではないでしょうか。
当時、第二国分は特攻隊が飛び立つ基地でした。空港を見下ろす上床公園には資料館などが建てられ、鎮魂と平和を希い、偉業を称える場所になっています。
平和に空を飛べることを、強く実感出来る空港なのかもしれません。
■徳之島空港(徳之島子宝空港)→関連旅行記
徳之島には、現空港のすぐ東側に旧陸軍の飛行場(浅間飛行場)がありました。
浅間飛行場は、昭和19年に完成した飛行場です。戦時中沖永良部や与論には飛行場がなかったので、戦争末期には、沖縄への前線基地となり、特攻隊も飛び立っています。
戦後、滑走路の跡地は平和通りという一直線道路になり、浅間飛行場のあったすぐ西側隣接地には徳之島空港ができました。現空港は、戦争当時は塩田だった場所を埋め立てて、昭和37年に東亜航空が開設しています。昭和30年代に飛行場誘致をした際、飛行場跡地が民間に払い下げられていたため旧飛行場区域を活用することを断念。この結果、現在地に落ち着いていますが、旧飛行場があったから、ここに飛行場を持ってくることが検討されました。旧飛行場が今の空港に繋がり、平和が未来へのびる子宝の空港になりました。
徳之島には、戦艦大和の慰霊塔があるなど、奄美群島の中でも戦争の記憶が数多く残る島となっています。
日本の空にのびる−東亜の航空の記憶を感じて子孫に残す、そんな場所です。
■旧石垣空港と新石垣空港(南ぬ島石垣空港)→関連旅行記
空港概要のページでも取り上げていますが、石垣島の空港も戦争と深い関わりがあります。
平成25年まで使われていた旧石垣空港は旧海軍の飛行場(第二石垣基地)でした。現在、跡地では再開発が進んでいます。戦争中はかなり攻撃を受けたせいで、この再開発工事では多数の不発弾が発見されています。戦争の要らない置き土産が未だに影響を与えています。
そして、実は、日本最新空港である新石垣空港も戦時中の飛行場と関係があります。現在の空港位置から南方に、昭和19年に強制収用されて造られた旧陸軍の飛行場(白保飛行場)がありました(現在も壕などが残存)。この飛行場跡地は、旧地主や現小作を巻き込んで土地返還を巡る問題が未だに続いているそうです。それが解決しないまま、目と鼻の先に新しい空港が出来ているのです。
新空港建設を巡っては、地元住民の反対運動が勃発し、候補地が二転三転。事業着手から完成まで実に30年以上を費やしています。反対の大きな理由は白保地区の海を保護するためでしたが、強制収用された白保飛行場の補償もなく、飛行場があると再び戦争で弾丸を飛ばされる標的となるという苦い記憶が反対運動を突き動かしたと言われています。
戦争中の飛行場の幻影が今に影響するー、戦争の残す問題は、世代が二代も三代も変わった三四半世紀経っても未だに解決しないほど山積みになるということを実感出来るでしょう。
■与那国空港
国境の島与那国島にある日本最西端空港与那国空港も戦時中生まれ。昭和18年に旧日本軍によって建設されています。
戦後占領期の米軍意向が残ったのがこの空港です。沖縄占領時に米軍が設定した防空識別圏を本土復帰後もそのまま使用したために、与那国島は、島の3分の2(東経123度より西側)が台湾の防空識別圏に入っており、南西航空の定期便が台湾の軍用機にスクランブルをかけられたこともあるほどでした。与那国空港も含まれるこの圏域の問題は、戦後長く続いていましたが、平成22年になって、中華民国が実質的に運用を外していた与那国島付近の圏域を日本が台湾側へ広げたことで、一応問題が解決されたことになっています。
戦争中、八重山地方では地上戦はなかったものの各島とも空襲が激しく、ガマでの生活を余儀なくされたため、蚊を媒介とするマラリアで多くの人が命を落としています。波照間島では戦略的でない強制疎開の結果、島民の3割がマラリアで死亡するなど、八重山全体の人口に対するマラリアでの死亡率は21.5%にものぼったとされています。与那国も例外ではなく、石垣島に次いで罹患者が多かったとされており、空襲での死者が島内で40人ほどであったのに対し、マラリアの死者は300人を超えています。
与那国島への自衛隊配備の話が出た際、島民からは賛否の声が出ました。本土の人間からすると先島防衛に不可欠で島を守れるのだから反対する理由はないように見えます。しかし、戦争の最前線で、本土軍人にこき使われ、マラリア感染させられ、最後は見捨てられたのを見てきた八重山群民からしてみれば、反対する人が出てきても不思議はありません。(八重山の人たちが、新型コロナウイルス感染症の持ち込みに過敏になっているのも何となく分かります。蔓延したら5分の1が死ぬのを見てきた人たちですから、、、。)
離島には離島の戦争がある。国境の島だからこそ、それが分かるかもしれません。
日本空港情報館では、空港訪問の中で、飛行場の跡地にもいくつか訪れています(旅行記参照)。戦争と飛行場を跡地からも振り返ってみます。
■根室飛行場→関連旅行記
実は米国本土に最も近い道東(ひがし北海道)。ソ連のギリギリ参戦で北方領土問題が残ってしまいましたが、戦争中はそんな北の国境を意識して、道東には数多くの飛行場が造られています。
道東の中でも東の端の端、根室半島にも終戦直前に飛行場が造られました。旧海軍の飛行場(根室基地)で、根室市街より東側の半島中部牧の内にあり、根室から鉄道も引かれた飛行場でした。
現在、跡地周辺は、北海道らしい牧草地となっていますが、飛行場時代の地割りや道路はほぼそのまま残存。当時航空機を隠すのに使われた掩体壕も数多く残っています。そして、滑走路跡が、コンクリートを柵状に寸断されたまま残っているのも特徴です(柵状に寸断したのは終戦直後の連合軍)。航空写真を見ると、その跡がクッキリと残っているのが分かります。
75年前の飛行場の遺構がここまでたくさん残っているのは非常に珍しい存在です。飛行場跡地は、終戦直後に食糧増産のために農地として払い下げられて開墾されたところが多いですし、農地にならなかったところも、官庁街などに再開発されたところが多いです。滑走路跡などがまだ遺っている所は自衛隊基地など一般人が近くまで行けない所がほとんど。根室飛行場の跡地は、北海道の端で開発されなかったことで、近寄れる遺構として残っている奇跡的なものになっています。
平和な風景が広がっていますが、当時の雰囲気を、少し味わえる存在と言えそうです。
■別海フライトパーク→関連旅行記
空港にはなれなかったものの、跡地が場外離着陸場として活用されているところもあります。開戦後に道東に造られた旧陸軍の飛行場(第一計根別飛行場)跡地は、今、別海フライトパークになっています。
畑作地帯にデンとある離着陸場です。ただ、よくよく見てみると、滑走路として使われているのは元誘導路。一方の滑走路跡には家が何軒か建っています。フライトパークの事務所がある一角は、格納庫があった場所で、周辺にはポツポツ格納庫跡の区画がはっきりと残っています(グーグルアースで見ると、こんもりした緑地が点在していて一目瞭然)。また、周辺には農地にポツンと掩体壕が複数残っていて、戦時中の飛行場だった記憶が突然現れる場所になっています。
この周辺には、戦時中は、五つの飛行場が点在していました。そのうちの一つである第四計根別飛行場は陸上自衛隊の別海駐屯地で、一時期西春別飛行場としても活用されていましたが、ここ第一は縮小して離着陸場に。残り三つは農地となり、ほぼ姿を消しています。それなりの大きさを持つ飛行場群でしたが、戦争が終わって平和になったら、小さくなった、そんな飛行場の代表例です。
■旧鳥取飛行場
現鳥取空港の南側に昭和42年まで使われていた旧飛行場がありましたが、ここも戦争中の開設です。
昭和17年に福田軽飛行機が試験滑走路として開設し、昭和19年に日産輸送機、昭和20年に勧業建設に継承された飛行場で、戦争中は旧陸軍が航空機練習機飛行場や不時着飛行場として使用していました。珍しく鳥取県のサイトでもこのあたりの紹介がされています。
跡地は昭和32年に市営飛行場となり、昭和42年に現空港が開港するまで、民間利用がされています。その後は、国道9号線や住宅地として活用されています。
国道9号線は滑走路跡地を活用しており、空港入口交差点から東側が跡地に当たります。航空写真を見ると分かりやすいですが、側道や住宅地の区画は滑走路跡そのままです。
こういった形で道路や住宅地になった跡地は日本全国に多くあります。ウイルスとの戦争で自粛生活に疲れているなら、国土地理院やグーグルマップなどの航空写真でそんな場所をネットサーフィンしてみるのもおススメです。
■旧北九州空港
平成18年まで使われていた旧北九州空港は、戦争中の昭和19年に開設された旧陸軍の飛行場(曽根飛行場)でした。こちらも北九州市などでは、戦時中の歴史が正規の沿革として取り上げられています。
小倉は軍都とされ、原子爆弾の目標都市のひとつとされていたほどですが、この飛行場は戦争後半での開設です。
戦後は米軍に接収され、昭和28年に小倉飛行場として民間利用が開始されました。海に開けた東側以外山が迫っているせいで霧が出やすく気流も悪い空港で、離着陸が非常に難しい空港でした。このため、昭和40年代には現空港計画が持ち上がり、約40年かけて埋め立て地へ移転しています。
廃港後は北九州空港跡地産業団地として活用。食品工場や薬局の倉庫をはじめ、九州労災病院、特別養護老人ホーム、保育園なども整備されています。戦争に使われた飛行場が、戦後75年かけて、ゆりかごから墓場まで人生を豊かにする施設に代わったのは、興味深いですね。
■旧大分空港→関連記事
昭和46年まで使われていた旧大分空港は、昭和13年に開場した旧海軍の飛行場(大分航空基地)です。
この飛行場では、75年前の今日8月15日、正午に玉音放送が流れた後の午後4時30分に最後の特別攻撃隊が出撃して18人が死亡するという悲しい出来事が起こっています(玉音放送後の出撃で正規の命令ではないため、正式に特攻隊とされず戦死扱いでもなかったそうです)。戦時中開設の飛行場ではないのですが、戦後も戦争の舞台になった飛行場ということで取り上げてみました。
戦後、飛行場は米軍に接収されたあと、昭和31年に返還されて翌年、旧大分空港になっています。戦争当時の旧海軍基地は、現在の大分川と裏川に囲まれた全域もはみ出す広大ものでしたが、旧大分空港はごくごく小さい範囲に縮小しました。これは戦争の記憶が強い時代、地元の反対運動も影響したようです。それも、富士航空機墜落事故や製鉄所の高炉建設障害などもあり、わずか14年で新空港へ移転することになっています。
飛行場の跡地は、製鉄所の一部、住宅地、平和市民公園、そして旧大分空港範囲は大洲総合運動公園や旧ホーバー基地等になり、戦後の発展を支える場所になりました。
※最後の特攻隊で唯一50歳代で隊長だった宇垣纏海軍中将は、沖縄伊平屋島(空港計画がある島です)に墜落して死亡。墓は、戦時中旧陸軍調布飛行場の関連施設としても使われた多磨霊園にあります。
日本空港情報館では、海外空港もいくつか取り上げています。日本だけでなく、海外からも、取り上げたことのある空港を中心に少しピックアップしてみます。
■海外:金浦国際空港(韓国ソウル)
日本軍が戦争直前〜戦時中に造った海外の飛行場で、著名なのは、韓国ソウルの金浦国際空港が筆頭でしょう。
東京羽田空港から直行便が飛んでいる金浦空港は、1939年に造られた旧陸軍の飛行場(京城第一飛行場)です。日本では空港沿革で軍基地時代の歴史は扱われないことが多いですが、この空港は、公式サイトでも、「日本軍飛行場で始まる」と、きちんと記載しています。
日本が造った飛行場は、戦後、1958年に汝矣島飛行場(元々の京城飛行場)を吸収。ソウルの表玄関としてドンドン拡張され、大きな空港へと変貌しています。いまは仁川メインとなりましたが、仁川が出来るまでは、この金浦がソウルの玄関空港でした。
第二次世界大戦が終われば軍事利用はなくなるかと思いきや、朝鮮戦争勃発時は米軍基地だったので軍事拠点となりました。韓国は、未だに北朝鮮と戦争中の国家。日本が開発したインフラを発展させて戦争を続けていることを、日本から最も近くで感じることができる場所とも言えるでしょう。
■海外:台北松山空港(台湾台北)
日本では旧日本軍等が開設した飛行場が縮小したところが結構ありますが、海外は拡張しているところが多いです。
台北の街中にある台北松山空港もそのひとつ。この空港は、戦争中に旧海軍の飛行場(台北航空基地)になったところです。
元々は、日本が統治していた1936年に台湾総督府が造った民用飛行場ですが、すぐに軍利用が開始され、中国本土から空爆を受けています。日本統治が終了した後も、台湾空軍との軍民共用となっています。
現在は台北市内にある非常に便利な空港として、台湾国内線以外にも、羽田線や中国本土との間の両岸路線などが就航。2013年には日本の松山空港との間に同一名空港間のチャーター便が飛んで話題になったりしています(戦争中は埼玉県の東松山にも松山飛行場がありました)。
台湾では、日本統治時代の遺構が文化財指定しているところが結構多いです。台北松山空港は、現代も活用を続ける、その代表例と言えるかもしれません。
■海外:ダニエル・K・イノウエ国際空港(米国ホノルル)
日本と太平洋戦争を考えるとき、絶対に外せない海外空港が米国ホノルルのダニエル・K・イノウエ国際空港ではないでしょうか。
空港に隣接し、滑走路を共用するヒッカム空軍基地は、真珠湾攻撃で空爆された飛行場で、太平洋戦争の始まりの地となりました。それが戦後は日本人に大人気のリゾート地となり、日本人が降り立つ玄関空港として活用されているのですから、歴史は分からないものです。
そして、空港名になっているのは日系二世の人物の名前です。ダニエル・K・イノウエ氏はアジア系として初めて米国上院仮議長にもなった人物。戦争中は、激しい敵性外国人排斥の中で生き抜くために敢えて志願組織された米国陸軍の日系人部隊に所属し、ヨーロッパ戦線などで活躍しています。
ハワイと太平洋戦争を知りたいなら、12月7日にホノルルへ行くのがオススメ。今年は行けるか分かりませんが、毎年パールハーバーのパレードが行われており、退役軍人の長老達が拍手喝采を浴びています。三四半世紀経とうが、日本とかなり友好的に見える場所であろうが、米国にとって戦勝は記念であり、日本は敗戦国。戦勝国では、戦争が殺し合いだとは一ミリも思われておらず、栄光だとしか思われていないことを実感出来るでしょう。
米国ホノルルに限らず、太平洋の島々は、太平洋戦争で上陸交戦になったところがたくさんあります。これらの離島の空港は戦争のために造られた所が多いです。戦争でも使われた空港は、日本から直行便があったところなら、サイパンやグアム、パラオなどが馴染み深いでしょうか。
人同士の戦争ではなく、新型コロナウイルス感染症との戦争に全力を注いで、終息したら、太平洋のリゾート離島へ。でもその前に、STAY HOMEな間に、そんな太平洋離島の戦争を振り返ってみませんか。
2009年でしたが、空港巡りをする中で、8月9日に対馬にいたことがあります。
11時2分、物凄いデッカイサイレンが鳴り響きました。そして、道端に突然出てきたおばあさんが黙祷を捧げていました。
私は戦争未体験の世代で、8月15日以外、戦争のことなど全く忘れていて、最初は何が何だかよく分かりませんでした。それだけに、おばあさんの黙祷はとても衝撃的でした。
長崎では戦争を振り返る日は、8月9日なんですね。
よく考えてみると、そんな日は、東京なら3月10日という人もいるでしょうし、沖縄では6月23日です。北方領土の元島民にとっては、それが9月かもしれません。そもそも、戦死した家族がいるなら、その日で時が止まっている人もいるかもしれません。
長崎対馬のおばあさんの黙祷で、忘れていた何かに気が付く。これは、空港巡りをして地方に行ったからこそ、分かったことでした。地方や海外に行くと、こんなようなちょっとしたことでも常識が全く異なることに気が付けます。
新型コロナウイルス感染症の影響で、繋がりの大切さが注目されていますが、地方や海外との繋がりが、普段の生活に大きく関係していることを今年ほど実感している年はないのではないでしょうか。
空港は、そんな地方や海外との繋がりを保つ結節点です。
戦争から75年経って、平和に自由に誰でも遠くへ飛んでいけるようになりました。それを今後も保っていけるのか。過去を振り返ることで、現在に活かし、未来を見つめる。今日は少しでも考えてみる、そんな日なのかもしれません。
今日ぐらいは、興味のある話題からでも良いので、戦争を振り返り、平和について考えてみませんか。
■戦後75年特集 沖縄戦停止三四半世紀、沖縄と空港を考える(6月23日更新)
http://johokotu.seesaa.net/article/475875218.html
■航空戦が起こった第二次世界大戦の欧州終戦から三四半世紀(5月9日更新)http://johokotu.seesaa.net/article/475004801.html
■戦後70年特集 戦争と空港を考える(戦後70年の時の特集、2015年8月15日更新)
http://johokotu.seesaa.net/article/423956544.html
■稚内・利尻・礼文・弟子屈への旅行後(旧軍飛行場を取り上げた旅行記あとがき、2009年05月25日更新)
http://johokotu.seesaa.net/article/123095638.html
2020年08月15日
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